1982年3月8日にリリースされたファースト・アルバム『Asia(詠時感?時へのロマン)』は数ヶ月後には全米NO.1を9週連続キープ、全世界で1500万枚のセールスを達成する快挙を成し遂げた。シングル『Heat Of the Moment』は全米ポップチャート4位、全米ロックチャート1位となった。70年代に流行した長いソロパートを控え、新しいプログレッシブ・ロックのあり方を呈示し、70年代に彼ら自身がいたどのバンドよりも巨大な売上を果たした。
翌1983年にはセカンド・アルバム『アルファ』を発表。完全にウェットン/ダウンズの作曲チーム中心となり初期の中心メンバーであるハウが作曲に参加した作品が入っていない。シングル『Don't Cry』が全米ポップチャート10位、全米ロックチャート1位となりアルバムも全米1位となる。しかし『Asia』の売上の1/5ほどになってしまい、ツアーの客も減ってしまった。バンド内で責任のなすりあいが始まり、中心メンバーのウェットンが1983年の初来日ツアー前に突如脱退。2007年の来日前にウェットンが語るところによると、脱退はウェットンの酒癖の悪さや服装・生活態度に不満を持ったマネジメントサイドによる解雇だったとされる。凄腕のウェットンの代わりをできるのはベースもボーカルも絶品で音域や声質も似ているグレッグ・レイク(vo.b/元EL&P)以外いないということで代役を依頼。歌詞をじっくり覚える時間もなかったグレッグはツアー中、モニターに表示される歌詞を見ながら歌うことになったが、長年同じバンドにいたカールを始め他のメンバーとも息が合い、コンサートは素晴らしいものとなり大成功となった。MTVの企画で、日本武道館公演の中の1回を全世界に生中継するというイベント『ASIA in ASIA』も行われた。この公演はアメリカの放送時間のため平日の昼間に行われ、演奏時間も短かったため入場料は安く設定され、後にビデオでも発売された。このままグレッグがエイジアに在籍しつづけるのかとファンは思ったが、1984年に再びウェットンが復帰している。
1970年代末から1980年代初頭、数々のプログレッシヴ・ロック・バンドの解散と、若く才能溢れるミュージシャンの台頭が契機となり、エイジア結成のプランは流動的に動き始めた(リック・ウェイクマンのアルバム「罪なる舞踏」の2003年リマスター盤CDに収録されたライナーノーツによると、1980年頃にゲフィン・レコードから「リック・ウェイクマン(Key.)、ジョン・ウェットン(B./Vo.)、カール・パーマー(D.)、トレヴァー・ラビン(G./Vo.)でバンドを結成して欲しいという打診があった。実現には至らなかったが、この構想が後にエイジアに繋がったと言われている)。
イエスのマネージャーだったブライアン・レーンの仲立ちによりジョン・ウェットン(vo.b/元キング・クリムゾン、ロキシー・ミュージック、U.K.)とスティーヴ・ハウ(g.vo/元イエス)が一緒に曲作りをするようになり、デビューアルバムの約半分を書き上げた。、サイモン・フィリップス(ds)が当初務めたドラマーの座はカール・パーマー(ds/元EL&P)のものとなり、ハウの紹介によりジェフ・ダウンズ(kbd/元バグルス、イエス)が加入。バンド名はブライアン・レーンが提案したAsiaとなった。結成メンバーの他に候補として挙ったアーティストは、ロイ・ウッド(vo.Bass)、アラン・ホワイト(ds)、トレヴァー・ラビン(g.vo)、ロバート・ベリー(g.vo)など。
各メンバーの実績や知名度などから最後のスーパーグループと呼ばれた。結成時のソング・ライティングは、アルバム制作の頃までにはウェットン/ダウンズのチームが出来上がり、プログレのエッセンスを鏤めた3分半のポップ・ソングというスタイルが確立された。